日本におけるキリスト教の歴史は、16世紀にポルトガルの宣教師が布教したことから本格的に広まりました。
この記事では、「日本にキリスト教を最初に本格的に伝えた宣教師は誰?」に対して、正解とその背景を解説します。
フランシスコ・ザビエルは、1549年に日本へ到着し、初めて本格的にキリスト教をした宣教師。
彼が日本に来ることになった経緯や日本での活動、その後の影響について解説します。

偉大な先生!
本記事は「日本キリシタン検定3級 問3」の解説も兼ねています。
詳細は「ザビエルの日本布教活動」の項目をご覧ください。
フランシスコ・ザビエルが日本に来たきっかけ

フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の創設メンバーの一人であり、アジアでのキリスト教布教の使命を持っていました。
インド・ゴアを拠点に活動していた彼が、日本への布教を決意した背景には、日本人ヤジロウとの出会いがありました。
ヤジロウとの出会い
ヤジロウは、日本の鹿児島出身の青年で、罪を犯してマラッカ(現在のマレーシア)に逃れたとされています。
そこで彼はポルトガル人と接触し、キリスト教に興味を持つように。
その後、ゴアに渡ったヤジロウは、フランシスコ・ザビエルと出会い、日本について語りました。
ザビエルは、日本を「高い知性と道徳心を持つ人々が住む国」とし、キリスト教を広めることが重要だと考えます。
こうして、ザビエルは日本への布教を決意しました。
ザビエルの日本布教活動

1549年8月15日、フランシスコ・ザビエルは鹿児島に到着しました。
彼は、薩摩の戦国大名・島津貴久のもとで布教を試みますが、当初は禁止されていました。
その後、一定の許可を得て布教活動を開始。
ヤジロウの通訳を通じて、日本人にキリスト教を説き、多くの日本人が関心を持ちました。
京都を目指すも挫折
ザビエルは日本にキリスト教を広めるため、当時の日本の中心・京都へ向かいます。
しかし、京都では天皇や将軍に謁見できず、布教活動は思うように進みませんでした。
山口・豊後での活動
その後、ザビエルは山口や豊後(現在の大分)へ向かい、大名の大内義隆や大友宗麟のもとで布教を行います。
大友宗麟はキリスト教に強い関心を示し、その後のキリスト教の広まりに大きな影響を与えました。
ザビエルの日本離脱とその後の影響

フランシスコ・ザビエルは、日本での布教活動を終えた後、次の布教地・中国を目指します。
しかし、中国本土に入る前に病でたおれ、1552年に46歳の若さで亡くなりました。
日本におけるキリスト教の発展
ザビエルの活動は一時的なものでしたが、その後もイエズス会をはじめ、フランシスコ会やドミニコ会の宣教師たちが来日し、日本におけるキリスト教は広がっていきました。
特に、大名たちがキリスト教を受け入れたことで、戦国時代の日本において「キリシタン大名」が生まれ、多くの人々がキリスト教に改宗しています。
しかし、江戸時代に入ると、徳川幕府によるキリスト教弾圧が始まり、最終的には禁教令が敷かれました。
まとめ
- ザビエルは、日本にキリスト教を布教した最初の宣教師。
- ヤジロウとの出会いで日本布教を決意。
- 1549年に鹿児島に到着し、薩摩・山口・豊後などで布教。
- 日本での活動後、中国を目指したが、途中で病死。
- 江戸時代に弾圧を受け、潜伏キリシタンの時代を迎えた。
フランシスコ・ザビエルの来日は、日本の歴史に大きな影響を与えました。
彼が日本にキリスト教をもたらしたことで、その後の歴史においてキリスト教がどのように広まり、弾圧され、それでもなお信仰が続いたのかを知ることができます。
このように、日本におけるキリスト教の歴史はザビエルの活動から始まり、今日に至るまで続いています。
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