- 大友義鎮が出世した理由
- 豊後がキリシタン布教の本部に
- 日本初の西洋式病院の設立
こんにちは、ルイ氏です。
この記事は、大友義鎮の出世と豊後の状況を紹介します。

やっぱどの時代もお金ですな
記事の登場人物
- 足利義輝
- 大友義鎮
- コスモ・デ・トルレス
- ルイス・デ・アルメイダ
足利義輝

お金くれたら領土任せるよ
名前:足利義輝(よしてる)
室町幕府13代征夷大将軍
豊後から献金をもらっている
大友義鎮

金で地位が買えるなら
名前:大友義鎮(よししげ)
別名:大友宗麟
大友家当主・北部九州を掌握
コスモ・デ・トルレス

布教の責任者になっちゃった
名前:トルレス(トーレス)
イエズス会の日本布教長
豊後で日本布教のトップになる
ルイス・デ・アルメイダ

外科医です
名前:アルメイダ
裕福な私財を投じて布教
日本で最初の西洋式病院を設立
貿易で得た金で幕府公認の統治者・大友義鎮
大友義鎮は室町幕府公認で、九州各国の守護職に任命されます。
- 天文23年(1554)8月:肥前守護職
- 永禄2年(1559)6月:豊前・筑前守護職
- 永禄2年(1559)11月:九州探題職
しかし、この出世は幕府に対する献金の成果でした。

鉄砲ちょーだい

はい喜んで

お金もちょーだい

あなた方のため
義鎮は幕府への献金の見返りに、九州6ヶ国を統治。
九州一の大大名となりました。
- 豊後
- 豊前
- 筑前
- 筑後
- 肥前
- 肥後

自分のため自分のため
また、永禄3年(1560)3月。
義鎮は将軍義輝から「桐紋」の使用を許可されます。
官位も「左衛門督」に昇格しました。
豊後がキリシタン布教の本拠地に
弘治3年(1560)4月、大内政変後にキリシタンが山口から避難してきました。
- トルレス
- シルバ
- 日本人キリシタン
義鎮は避難してきたキリシタンらを、暖かく迎えます。
布教も許したので、府内にキリシタンが次第に増え始めました。
トルレスが日本布教長に就任
弘治3年(1560)6月、宣教師らが府内に集まり、日本の布教本部になります。
- ベルショール・ヌーネス
- メンデス・ピント
しかし、イエズス会最高責任者のヌーネスは、病により4ヶ月で日本を去ります。
ピントもイエズス会を去ったので、布教はトルレスが指揮をとりました。

まずは病院を建てようかね
日本初の西洋式病院の設立
弘治3年(1560)、義鎮はイエズス会に建設用地を寄付。
この土地に教会堂、病院、育児院が建てられました。

これも布教のにつながるからね
病院では、外科医でもあるアルメイダが治療にあたりました。
このことにより、府内は医学発祥の地とされています。

日本初の西洋式病院です
アルメイダの医術は評判となり、京都や大阪からも患者きました。
同時に外科医の養成も行い、日本人にも医術を伝えます。
内科の方は、日本人キリシタンのパウロが担当しました。
医術は人を助け、キリスト教はどんどん広がっていきました。

ねらい通りやね
まとめ
今回が義鎮の出世とキリスト教布教本部になる豊後を紹介しました。
- 義鎮は幕府の献金により九州の統治者になる
- 豊後がキリスト教布教の本部になる
- 豊後に日本初の西洋式病院が設立
- 医術の提供でキリシタンが増加
南蛮貿易で得た利益を利用し、義鎮は幕府公認の九州統治者になりました。
そして豊後はキリシタン布教の地へ。
今後はどのような歴史が展開していくのでしょう。
乞うご期待!

ありがとうございました!
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