- 大寧寺の乱のきっかけ
- 大内家17代当主の誕生
- 毛利元就の仇うち
- 毛利家と大友家の密約
こんにちは、ルイ氏です。
この記事は大内家の最後の当主となった、大内義長を紹介します。

兄弟すら裏切る!まさに戦国!
大内義長の基本情報
大内義長の旧姓は大友晴英、出身は九州の豊後国です。
父は大友家20代当主・大友義鑑。
兄はキリシタン大名で有名な、大友義鎮(宗麟)です。
次男である晴英は、兄の存在があるので大友家を継げません。
さらに義鎮は二階崩れの変で、父・義鑑から当主の座を奪っています。
そんな晴英に願ってもないチャンスが到来。
西国一の勢力、大内家から声がかかったのでした。
大内家・大友家家系図

晴英の母は大内家16代当主・大内義隆の姉。
晴英は義隆の甥にあたります。
登場人物
- 大内義隆
- 大内義長
- 大友義鎮
- 陶晴賢
- 毛利元就
大内義隆

戦より文化芸術が好きなり!
名前:大内 義隆(よしたか)
西国一の大名
ザビエルに布教を許可
大内義長

リーダーになりたいじゃん!?
名前:大内 義長(よしなが)
旧名:大友 晴英(はるひで)
義鎮の実弟
大友義鎮

まだ弟が心配
名前:大友 義鎮(よししげ)
別名:大友 宗麟
キリシタン大名
陶晴賢

武力こそ正義!
名前:陶 晴賢(すえ はるかた)
旧名:陶 隆房(たかふさ)
大内家の影の実力者
毛利元就

義隆様の部下です
名前:毛利 元就(もとなり)
安芸国の大名
義隆の家臣
防長の内乱・大寧寺の乱
西国最大の大名で、防長に本拠地を置く大内家で内乱が起こります。
天文20年(1551)9月1日、重臣の陶隆房によるクーデターが勃発。
16代当主・大内義隆が山口を追われました。
義隆は長門深川の大寧寺(たいねいじ)で自害。
これが、防長の内乱・大寧寺の乱です。
内乱の首謀者は重臣・陶隆房(晴賢)
大内家は先代の大内義興(よしおき)が、西国一の基盤を築きました。
その基盤を受け継いだのが、大内義隆。
義隆は始めこそ軍事に力を入れていましたが、徐々に路線を変更。
文化的権威に力を入れていきます。

美しさが正義ぞよ
しかし、世は戦国時代。
義隆のように文化に力を入れても、武力が圧倒する時代です。

脳内花畑じゃ先がない

武力こそ正義だ!
文化に力を入れても、攻められたら終わり。
戦国時代を生きぬくために、内乱は必然だったかもしれません。
大内家17代当主・大内義長の誕生
陶隆房のクーデターによって、次の大内家当主は義長となります。
義長は豊後の大友義鎮の弟。
母が大内家だったため、陶隆房からお呼びがかかりました。
しかし、当主といっても陶隆房が影の実力者。
義長も義隆と同じ運命をたどることに。
影の支配者・陶晴賢は健在
謀反の首謀者である陶隆房は、新たな当主として大友家の晴英を迎えます。
晴英は義隆にとって、甥にあたる人物。

マジで行くなって!
しかし、大内家に行っても、陶隆房の言いなりになるだけと義鎮は止めます。

国のトップだぜ兄やん!

人の上に立ってこそメンズよ!

義隆の二の舞になるって…
大内家を継ぐことは武門の名誉。
将来に不安があっても悔いはないと、晴英は反対する義鎮を説得しました。
晴英は大内家の当主となり、大内義長と名のります。

やる気MAXオリックス!
また、陶隆房も名前を変え、陶晴賢と改めました。

バカは扱いやすくて楽だわw
義長もキリスト教布教を保護
大内家当主となった義長。
兄・義鎮にならって、キリスト教を保護します。
山口に滞在していた宣教師トルレスや修道士イルマンらに、教会堂を建設。
これが、日本初のキリスト教の教会となります。
義隆は廃寺になっていた大道寺を、ザビエルに与えます。
ザビエルは大道寺を拠点に、キリスト教を布教。
義長が大道寺を教会堂として、建て直しました。
大内氏滅亡~裏にあった不可侵条約~
山口で新しい国造りに奮闘する義長。
しかし、事実上の支配者である陶晴賢の前では、計画も思い通りにいきません。

山口を「YAMAGUCHI」表記にしよ!

却下
しょせん義長は、陶晴賢にとって操り人形。
そして義鎮の不安が、現実となります。
毛利元就の心境
義鎮の不安は、安芸国の大名である毛利元就です。
元就は義隆の名目上の家臣。
陶晴賢が首謀した大寧寺の乱に、憎しみをもっていました。
さらに、陶晴賢が連れてきた義長を、国主とは認めません。

陶の野郎…

エセ国主だろ!
元就は義隆の仇をとるため、じっと機会を狙っていました。

必ずぶっ〇す!
陶晴賢、打ち取られる~厳島の戦い~
義長が山口に来て4年後の、弘治元年(1555)10月1日。
元就は厳島神社で、陶の大軍と激突します。
大将の陶晴賢を打ち取り、毛利軍の勝利。
元就の実力を、内外に示しました。

どんなもんじゃい!!

ガクガク…
続いて、陶晴賢のあやつり人形・義長を討とうとします。
しかし、領土内で一揆が発生。
鎮圧に、1年を費やしてしまいます。

ちっ

あっぶねー!セーフ!
義隆に続き、義長も自害
元就は周防国内の一揆を治めると、義長の討伐に動きます。
毛利軍は、義長配下の大内軍を突破。
弘治3年(1557)4月3日、元就は義長を長府の長福寺に追いつめます。
義長は長福寺で自害しました。

兄やんの言う通りだった…
義長自害の裏側~不可侵条約の内容~
義長は元就から自害につめられるまで、豊後の兄・義鎮に援軍を求めていました。
しかし、義鎮は援軍を拒否。
義鎮は、弟を見限ったのです。

兄やんヘルプミー!

高崎山にサルでも見に行くか

兄…やん?
この頃、元就は豊後に家臣を派遣。
関門海峡をはさんで、お互いに侵略しないという密約を交わしていたのです。
義鎮は手出さない代わりに、元就から筑前・豊前をもらう約束でした。

無視してくれれば国やるから

すまんな弟
まとめ
今回は大友晴英が大内家を継いで、自害するまでを紹介しました。
- 陶晴賢の内乱により義長が17代当主になる
- 当主・義長も陶晴賢には逆らえない
- 毛利元就が義隆の仇を討つ
- 元就により義長も自害
- 裏には義鎮との密約があった
当初は弟が大内家を継ぐことに反対だった義鎮。
理由は大内義隆の二の舞になるから。
しかし、義長の自害の原因をつくったのは、ほかでもなく兄・義鎮だったのです。
大内家を滅亡に追いやった、毛利元就。
今後の活躍にもこうご期待!

ありがとうございました!
コメント